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2011年7月11日 (月)

特異点

例えば、僕が「左に行け」と言って、言われた相手が左に行こうとするんだけど、そもそも向いてる方向が違うから、僕が意図した方向とは違う方に歩き始める。だから、その相手が向いている方向を変えようとするのだけど、ちっともその意味が分かってくれない。
つまりはそういうことを、この数ヶ月ずっとやっているワケですが……デキの悪いのが可愛く見えるのは2次元だけだよ?
 
 
 
僕がはじめて買ったSF小説は、ジャック・ウイリアムスンの作品の児童向け和訳である「時をかける宇宙遊撃隊」でした。一般向け邦題は「航時軍団」というらしい。
タイトル通りのタイムパラドックスをテーマにしたで、2つの平行世界が、どちらの歴史が生き残るか争っていて、まぁ、最終的にはハッピーエンドになります。
 
そんなSF読書歴から始まっているのに、僕はタイムパラドックスモノが苦手です。
それは、僕が推理小説が好きではないのと似たような感覚で、複線に矛盾を感じるんですよね。ループの接続点がおかしく見える。
 
でも、SFにおいて、時間航行というテーマは、とても人気があります。受け手にも作り手にも。まぁ、応用物理学が、文系の人たちからはとっかかりやすく見えているのかもしれない。
 
 
で、PSP版の出たSteinsGateを、最近いくつかのエンディングを見るまでプレイしてみたんです。内容自体は面白かったけど、時間航行に関しては、やっぱり違和感を感じました。
それは結局、タイムパラドックス作品の基本原理が「主人公を『世界の意思』視点で描かれている」からかもしれないなーとか思ったり。
 
 
昔は、小説にしても漫画にしても、もっとあからさまに「宇宙の意思」が出てきて、結果「作者=神様がどうにでもできるんだ」みたいな、トンデモで終わることがありました。でも知ってる限りじゃ、わりと新しいアニメでも「マイトガイン」くらいまでさかのぼるから、今ではほとんど作られてないんじゃないかな。
ただ、あからさまじゃなくなっただけで、結局主人公視点が「絶対」であることには変わりなく、ノベルゲームなんかで言う「選択肢」なんかは、最も端的な例だと思う。
先のシュタインズゲートは、作中で主人公を「観測者」として定義しているから、時間とそれを移動するキャラクターの行動に、あまり無理がない。僕の感じ方は別にしてね。
というか、話が分かりやすかったと言うべきか。
 
 
たぶんSF作家(というと語弊があるけど)は、事前に応用物理学とかを勉強して、その理論からフィクションで仮説を作ってるから、そういった理論から外れる作品は作ることができないのではなかろうか。
で、その、今一般に知られている応用物理学の仮説のいくつかは、僕と思考の過程が違っているんじゃないかと思えてきました。
 
 
それがどう違うのかっていうのは、とても抽象概念的なので説明できないんだよね。というか、作品を作るってのは、その概念を形にする作業だと思う。
 
その作品が、実験に基づく仮説を記述した論文なのか、独自の考えに基づく物語として書かれた作品なのかという点が、学者と作家を分ける要素なのかもしれない。
乱暴な言い方だけど。
 
 
 
理系と文系は、単純に学校教育の評価結果から個人が判断してるだけで、実のところどちらも本質的には変わらないと思います。むしろ、言葉によるカテゴライズで、可能性をつぶしている。
本来、文型と理数系なんていう区分けはナンセンスであり、ただ点数を稼ぐのに効率のよい手段を選ぶための指標なだけ。
その結果、数学を学ぶ機会が減るのは、とても残念な話。
 
物理学は、世界の自走を論理的に説明するための学問であり、数学は、そこで得られる仮説を簡略化し記号化して分かりやすくしたもの。だから、数学を勉強するということは、世界を構成している事象を勉強するということであり、その見方、捉え方、考え方を学ぶと言うこと。
 
 
残念ながら、学校教育ではその本質を教えられないため、単に、時間内に計算結果を早く出すと言う能力を身につけるだけになっていて、それができない人がふるい落とされていくということになっている印象なんだよね。
 
 
 
結果として、そもそも自分がどっちを向いているか、相手が言っているのがどの方向なのか――ということすら認識できないので、永遠に話は平行線のまま永遠に交わらない人生の人たちと仕事をしていくことになるんだなーと思いました。
それは、どっちが間違っているとかいう話ではないんだ。

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